Wednesday, October 18, 2006

弁護士

複数の人間がいると、互いに影響し合うことによって、度重なる接触の中に一定の様式や秩序などが生まれる。これらをある種の領域であるかのように捉えて、構成する不特定多数の人間たちの集まりを社会と呼ぶ。まさに共同体と謂うに相応しい現代のそれは、法という秩序の元で、既成の倫理観を逸することなく、相互干渉を自ら制限することに拠ってそれの一切を社会という単独意識体に委ねている。

人を殺してはいけないのはなぜか?という問いに答えられない「現代人」が多くなったと聞く。過去の文明において生活する人間はその問い答えられたか。否、そもそも人を殺してはいけないという「真実」はそこにはなかった。在ったのは、人を殺すことによって、その属する共同体から排斥されるという事実だけだ。

道徳について思慮を焼べる人間が減ったのではなく、発生した都合論理に疑問を投げかける人間が増えたのだ。

我々は、属する社会において、如何に自らを人間的に装うかを考えている機械だ。

「飢えれば食え。絶望すれば死ね。憎ければ殺せ。愛しければ犯せ。」などと言えば社会から排斥されるであろう。

Sunday, October 15, 2006

perversion

例えば私が、この人間が発明した記文法を用ゐて、ある制圧的な環境下に置かれようとも、思索し得た事、かの人間にさうした事柄を伝える内容としてそれを記し、私がその目的を認めた文章をここに残していくとした場合、一体それはある制圧的な環境の下で何らかの可逆性をもってしてあるに過ぎないということを、私は了解してゐる。


Ambrose Gwinnett Bierceは『THE DEVIL'S DICTIONARY』の中で、デカルトの発言は不徹底である、厳密性を更に求めるならcogito cogito, ergo cogito sum.(「我思うと我思う、故に我ありと我思う」)というべきであろうと書いている。確かに、cogitoを論ずるときには、それが単なる「私」ではなく「考えるところの私」もしくは「私は考える」の意味であることを忘れてはいけない。しかしデカルトはそうした含意を統括する際に発生する精神と肉体のパラドキシカルな階層的二項対立を、つまりは「私」の位相または定義をある程度メタフィジカルな領域に据えざるをえないことを目測していたのだろう。


例えば私が、ある事柄を選択し得るとして、思い通りにその事柄を決定した場合に、私は自由だったといえるか。私が他のありとあらゆる他の事象、つまりは「ある事柄を選択する」という状況をも別様に選択出来なければ私は自由ではない。自由というのは私以前の強大な何かが規定した、決して満たされぬ事象なのだ。自由を求めるということは、決して満たされぬ穴の開いた釜に水を注ぎ入れることに等しい。


私がゐる、この世界には他に幾万もの人間が存在してゐて、それらに偏在する自我のアーキタイプとしての集合的無意識そのものが私の意識を蝕むのだ。というのは、縛られた、非開放的なそれに拠って私の望むところの意識と、そうで”あらなければならない”現実存在的な意識との不一致ではなく、私というものが生まれてくる以前に私というものが形成されてくるおぞましい世界、この懐疑主義を装うありとあらゆる単独意識体の、眼に見えぬシンクロニシティが私と私でありたいという私を切り裂くのだ。私は幾度となくこの見果てぬ平面からの解脱を試みはしたが、私の”上”に何があろうかとも知れん。


そこで私は単なる一回性の物質体である私のような存在が、さらに同時偏在し、まるで超越的なものの手のひらで転がされているという虚無感に覆われ、眼の利かなくなったままよたよたと街道を歩いてゐるという譯である。

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