Monday, July 27, 2009

五反田の風景

切って貼ったような文章を書くねと言われて、確かにコピペして尚個性のある文体を目指して文を書いていたのだけれど、tumblrでreblogを繰返していたらどんどん自分の純粋な作文力がなくなっていく。どうして始めたんだっけなぁ。

先日、昔懐かしい名古屋に行ってきた。

名古屋駅から程近い中川区の尾頭橋という街で物心がついた。市場だとかおもちゃ屋さんだとか、あの辺は公園もたくさんあったりして、友達と団地でかくれんぼに明け暮れた、とにかく子供時分の精神世界を構成していた場所で、溢れそうな感慨を胸に、遠く失ったのか忘れてきたのか、何かを求めて。

記憶が甦るような場所を訪ね歩いて、その市場だとかおもちゃ屋さんだとかは潰れたり改築したりでもう全然文字通り跡形も無くなっていたのだけれど、そのままのところも残っていたりした。その、整合性のない、知ってる筈のしらない街の中で、ひどく孤独を感じた。

童心にかえるところといえばあの土地なのだろうけれど、東京に越してからは名古屋の記憶も知らず知らず薄れていって、あぁこんなところもあったな以上の気持ちにはならなかった。どこでどうやって始まっていたのかを、そこに求めていた気持ちは、自分の中で緩やかに否定されていくのがわかった。

不完全な、フラッシュバックの様にしか起こらない記憶を捜しに行ったけれど、時間が接合部を喰らい潰して、同じ風景は二度と甦らない。それは、記憶を所有できないというのではなく、常に演繹的であった筈の幼い日の自己を、その軌跡であり記憶装置でもある、いつかみた映像の一端に垣間見るという行動の不可能性を感じさせた。

名古屋から東京に移ったあの引越しの日、子供ながらにも頻繁に来ることはないだろうと思った筈で、相応の感傷的な雰囲気を味わったと思う。

だけれどあの日の中で思い出すのは、五反田駅のホームに停まっていた池上線の中から見る目黒川、そこにひろがるテレクラのネオンとソープの看板、そしてまだ電灯の無い暗い部屋の中で家族と食べたKFCのチキンホットパイで、無邪気に「東京」に夢を膨らませていた。

Sunday, July 19, 2009

ベランダ

塩素の匂いはプールの夏だった頃、リノリウムの床が光る夏の学校は残滓となって、窓の隙間から頭に灼きつけるように吹き込んでくる。そとは暗く、藍色の空が世界を包んで、眼をこらして星を見附けようとするけれど、遠くの町の灯がそれを妨げるように明るさを増すようだ。

眼を閉じて重力を感じた
この体躯の末端が緩やかに
意識を失って大気と重なり
僕は隠れるように
光に満ち溢れて

暫くして僕が見たものは、一瞬前の景色とは少し違っていて、網膜に灼きついた闇がいつまでも視線を追いかけて、次第に僕は、君の眼を探し出すことが出来る気がして、そこに写る世界に沈んでいければいいのにと願ったものだった。しかしもう僕は、体の中に通る神経が上手く機能していることをみつけていて、窓を閉めるのだ。月は見えなかった。

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