Tuesday, January 26, 2010

国会図書館:『創元』/小林秀雄編纂 1-2輯

高校で担任をしてくださった先生に会いにいった。後輩の英作文を添削させられた。行方不明になっている同級生の話や、在学していた頃の昔話を二時間程した後、国会図書館に向かった。

一八歳など疾うに過ぎ、あと数カ月で二十一回目の誕生日を迎えるのだが、国会図書館に足を運ぶのは初めてだ。満十八歳未満は入館出来ないが、日本国内で発刊されたすべての印刷物は原則としてここと、京都にある関西館に保管されている。東京本館は母校日比谷高校の近く、国会議事堂の横にある自民党本部を交差点に挟んだ対面に位置している。千代田区なので周囲に喫煙出来る様な場所はないが、館内には喫煙室があるので利用できる。言うまでもなく、喫煙室への資料の持ち込みは厳禁である。

登録利用者カードを発行して貰い、食堂でカレーを食べた後、惜しむらくも第二集で廃刊となった『創元』という小林秀雄編纂の文芸誌を借りた。『無私の精神』で一度目にしたことがある『モォツアルト』や青山二郎の史論を読んだ。折角なので、まとめてみた。


夲といふInterfaceとの對峙

古い活版印刷書物は、文字位置が所々ズレていたりする。印刷するためには膨大な量の活版が必要になることを容易に窺い知ることが出来る。その事実を深く受け止めていた当時の文筆家達は、現代人のそれとは比べものにならない程の推敲を重ねていたのだろう。同様に、読み手等はその重みを背負った文字を一つ一つ噛み締めながら熟読"摂取"していくのであり、現代の我々が情報過多の為に速読"消化"する様子とは非常に対称的である。

風俗を描寫しようと心理を告白しようと、或いは何かを主張し何を批判しようと、さふ解り切った事はそれだけでは何の事でもない。ほんの手段に過ぎないさういふものが相寄り相乗り、要するに數十萬語を費やして、一つの沈黙を表現するのが自分の目的だ。

そういう覚悟をする者が筆を握っていたわけであるが、今ではソーシャルメディアの名の元に、一度解き放たれた言葉は自動的に情報の海の中で数十万語と連結し、局所的に収斂し、全く別の過程を経ながらにして同様な性質のものが出来上がる。


沈黙の實體

有象無象の少ない力が、その物量と引き換えに人間ひとりの精神を軽く凌駕する存在をつくりだす。

實證とかいふ言葉に引き摺られては編み出す、あれこれの思想、言い代へれば相手を論破し説得する事によって僅かに生を保つ様な思想に倦み果てゝ、思想そのものゝ表現を目指すに到った思想家、さういふ怪物達は現代にはもはやゐない。

彼の生きた〝現代〟には姿を消していた<思想家>は〝未来〟である現在に<集団的知性>として甦った。元来、子どもたちには答えを大人から得られない――得ても面白くない動機があって、孤狗狸という妖精に呼び掛けていた訳だが、現代の孤狗狸はネット上にいる不特定多数の人間がとって代わり、いよいよ孤狗狸は創造された世界から現実の姿を獲得した。集団的知性が垣間見せる孤狗狸の姿は、エントロピーの上昇に伴ない巨大化し、思考の連鎖は紡がれ続ける。まさに小林秀雄が嘗て触れた怪物になる。


音樂の美

ロマン主義音楽の時代には、音楽家の意識の最重要部は音で出来上がっていたという。その後、音の世界に言葉が侵入したことによって、そういった音楽家当人にとっては自明な事柄が見る見る曖昧になっていった。個性や主観の重視は特殊な心理や感情の発見と意識とを伴ない、当然それは又、己の生活経験の独特な解釈や形式を必要とするに至る。漠然とした音という材料を、言葉によって如何に分析し計量し限定して、音楽の運動を保証しようかという試みである。

言葉の介在は音楽という形式のもつ性格を変えていった。美は人を沈黙させるとはよく言われることだが、優れた芸術作品は、必ず言うに言われぬ或るものを表現していて、これは学問上の言葉も爲す處を知らず、僕等は止むなく口を噤むのである。一方、この沈黙は空虚ではなく感動に充ちているから、何かを語ろうとする衝動を抑え難く、しかも口を開けば嘘になるという意識との矛盾に堪える為に、作品に対する痛切な愛情が必要となる。美というものは、現実にある一つの抗し難い力であって、普通一般に考えられているよりも、実は遥かに美しくもなく愉快でもないらしい。


天才と眞理

それにしても眞理といふものは、確實なもの正確なものとはもともと何の關係もないものかも知れないのだ。美は眞の母であるかも知れない。

自らが創りあげた作品に潜む美と対面し、やがて抑えることの出来ない衝動を弄ぶ天才達。それは破壊であり、目的であり、友人であった。得体の知れない怪物は創造者の元を離れて、真理の探求へと旅立っていく。それを見送った彼らもまた、如何に生くべきかというあたらしい問いにぶつかる。

「天才とは努力し得る才だ」というゲエテの有名な言葉は、殆ど理解されていない、努力は凡才でもするからである。努力を要せず成功する場合には努力はしまい。天才とは寧ろ努力を發明する。凡才が容易とみる處に、何故、天才は難問を見るといふ事が屢々起こるのか。強い精神は容易なことを嫌ふ。困難や障碍の發明による自己改變の長い道だ。いつも與へられた困難だけをどうにか切り抜けてきた、所謂世の經驗家や苦労人は、一見意外に思はれるほど、發育不全な自己を持つてゐるものである。

成熟した自己が一様に真理へと到達出来るかと謂えば、それは別の事柄である。然し乍ら、合理的思惟という法で際限なく問題を追究し、曖昧な人格主義に陥ることもせず美と向き合う姿、その尊厳こそが人間の証であると彼は言う。僕等は天才の中に人間を発見し、その異様な怪物に息を呑む。万物の審判者にして愚純なる蚯蚓。心理の受託者で曖昧と誤謬の泥溝。宇宙の栄光でもあり魔物でもある。天才とはそういった人間の本質を発露させることに成功している人物を指すのであって、優れた能力を備えた人物という意味ではない。だから彼らが主観的に自らを天才と認識することはないとも言える。

彼の素面にはどんな深い仔細が隱されてゐたか。これは、常識で武装した世の大人達には關係のない事柄だ。

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