言語と思考おもしろい。
"Language, in short, can be about language. This is a fundamental way in which human noise-making systems differ from the cries of animals" (p.6)
人間と動物は、仲間に注意を促したり、合図をおくる、場所を指し示すなどの一次的な意味においては、その各々の個体がノードとして、一つの大きな神経系を構成するという共通点を持つ。しかし、人間の言語活動が動物の鳴き声と異なる点として、人間言語は内容に複次的な意味を持たせ、それについて「言及」出来るということが揚げられる。言葉を交わすとき、我々はそこにはいない第三者について話すことができるし、我々自身のことについても言葉を用いることによって考えることが出来る。どんな対象でも言語化できるので、知識や思想を蓄えることにより、それらを時空を超えて人類全体が共有出来るようになった。人間にとっての言語とは、単なるコミュニケーションツールだけでなく、思考する為の道具や人間文明の基盤としても重要な役割を担っていることが動物の鳴き声と比較することで明示されたと思う。
しかしまた、人間は動物的と同じように、身体行動を通して意志を伝える伝達手段も使っている。愛情や親愛など、感情を表出するときには、言語化された間接的なものよりも、物理的接触のある直接的ななものを無意識に求めるのではないかと思う。人間もまた動物なのだから当然言語を使いだす以前の記憶が無意識下に残っているのかもしれない。そう考えると「記憶」は言語化されて我々の中に保持されている訳ではないようである。
こういった複雑さ故に、人間は心理的な問題を抱えるようになってしまったのだとも思うし(人間以外の動物が果たして精神活動をしているかどうか分からないが)、言語そのものの一意性や自己(メタ)言及などによって引き起こされるコミュケーション障害が発生しているのだとも思う。それでも、「自己言及」という能力は、それ一つで人間が人間たり得るというようなものであるし、何よりこうして考えることが出来るのも言語ありきの話なので、人間活動というのは面白いと思う。
"a person speaking a language of a structure entirely different from that of English, such as Japanese, Chinese, or Turkish, may not even think the same thoughts as an English-speaking person" (p.11)
私もS. I. Hayakawaと同じように、異なる言語の話者同士は必ずしも同じ「思考」をしているとは限らないと思う。なぜなら、1.) でも述べた通り、思考は言語を用いて行われる為、その言語が違えば当然思考にも差異は見られると思うからである。自然言語は特に、その言語を創りだした人たちの生活、文化、宗教、地理など、様々な影響を多大に受けて構築されたものである筈で、それならばその積み重ねが、違うところで発生した言語と全く同じだということはありえないだろう。地域や風土が似ていたり、近かったりする場合で似た傾向を持つことはあるだろうが、必ず違いがあるはずだ。
名詞や数え方、表現に至るまで言語によって異なるのは当然として、人間である限り、生理的な本能である「食欲」や「性欲」などを別にしても(これらにしても言語と完全に切り離せる訳ではないが)、おそらく母語がその人の思考に与える影響は計り知れないだろう。更に言えば、私の経験からしても、外国語話者は体感的に印象や言い回しが異なっているし、例えば「自分の生きる理由」や「神はいるか」などの哲学的な考え方は顕著に異なっていると思う。これらは主に「文化的差異」として捉えがちではあるが、元を正せば言語の違いから発生したものなのかもしれない。認識するという行為が主に言語を通して行われることからしても、これはもはや自明の理であるように思われる。
"There is no necessary connection between the symbol and that which is symbolized." (p.16)
私も「symbol」と「symbolized」は必ずしも一致する必要はないと考える。「symbol」という「記号」を用いる時点で、たとえば実体のあるものが「symbolization」に組み込まれた時に絶対的相同性が保持されないのは当然だろう。分かりやすい例で言えば、言葉(人為的に作ったもの)とその言葉が表すもの(実体のあるもの)は一致しないし、コンサートホールでオーケストラの奏でる音が、その曲の楽譜に書かれている音符と同じかというとそれも違う。実際に存在するものには、宇宙においての座標系、構成する量子の状態、観測される時間など、あらゆる「状態」を付加情報として与えることが出来るので、「symbolize」という観測を行ったときには、必ずその意味内容に「状態」が付与される。故に、「symbolized」は絶対に一意しかもたないが、対して「symbol」はどのような文脈、あるいは状況で現れるにせよ、固定化された「記号」である。
言葉に留まらず、ある事象や状態、実際には存在しないものまで、ありとあらゆるものが「symbol」となりうるし、それが「symbolize」するものも同様にあるわけなので、これに例外はないと思う。たとえば人為的につくられた(と私は思っている)数学においても「0」は「0」という概念をそれ自体が表し、一見一致するようにみえるが、「0」という概念もそれを捉える人間によってどのようなイメージで思考しているかは異なるし、「0」自体の、たとえば視覚情報としても「輪のような形をした文字」「数字」「何かを模した絵」など様々な解釈が可能である。不確定性原理も同じように「数学」という「symbol」が自分自身を「symbolize」した際にその不確定性を証明するという結果となった。故に、「symbolization」において対応関係が一致するようなものは存在しないと考える。