彼の詩人達が脳漿斫斷し、眩暈定著の詩をして、私に敢へて晦澀な物思いをさせる。
與へられた猶豫の刻は當に我が體を掠み、深淵勦絶の此方へと引き摺り込んだ。
―と先人らを説破し、内に諂う酩酊癖、旣に胸襟迄浸かり、這ひつくばひ、畢竟彼方に到らしむだらう。
流竄であろうとも、蓋し其處には無尽の大空が拡がってゐる。
人間の、朽ち果て逝きながら諸手を差し伸ばし、犬儒の拘引から赱り、蟄から解ける聲が待ってゐると躊躇いもなく、あるいは、艶やかな其の眼、撓折、血潮。
聲宿る故の容は、聲知らぬ焔の躍動。
Sunday, December 3, 2006
Friday, November 24, 2006
連続体
僕は、可逆変化し得るという理想のもとに在る。
自分らしさを持つことが大事と言われてきたこれまでの社会は、殊日本は、欧米化運動の余剰によって自己主張を促されてきた。
否、多分人間は、他者に、自身に、常に自己を持つことを強いてきた。
僕らはおそらく単にタンパク質の塊だが、物質的に個々の差異は立証される。
だが形而上的概念である意識の相違は、計られるものではないだろう。
身体的レベルでは同じでも、意識の同一性に確証を得ることは出来ない。
最近僕らの周りでは、丁度年齢を同じだけ重ねてきた様な子供達が、能動連鎖的に自殺している。
彼らが自殺した理由には、(また大半が現実的処置として苛虐をそれに据え、実際にそうかもしれないが)
崩壊因子としての自我喪失が、無意識下に少なからずあったように思う。
そして、しばしば死は悔恨されるように、恣意消滅は赦されない。理解されない。
僕らは連綿と関係性をもった連続体という答えなのだろう。
生の欲動と死の欲動は占拠において対等であり、均衡が崩れれば修復が熾るのだろう。
僕は、人間意識の最近類として何にも介在されない物自体を想起する。
巨大な、独立した個体として「意識のようなもの」を喚起させる。
それが、意識として、最上の段階で規定させられる僕たちの現象なのかも知れない。
僕らはやがて大人になる。
僕らは僕らの子供達に"個立"を望むのだろうか。
ただし、希求が途絶えれば、僕らは消滅するに違いない。
自分らしさを持つことが大事と言われてきたこれまでの社会は、殊日本は、欧米化運動の余剰によって自己主張を促されてきた。
否、多分人間は、他者に、自身に、常に自己を持つことを強いてきた。
僕らはおそらく単にタンパク質の塊だが、物質的に個々の差異は立証される。
だが形而上的概念である意識の相違は、計られるものではないだろう。
身体的レベルでは同じでも、意識の同一性に確証を得ることは出来ない。
最近僕らの周りでは、丁度年齢を同じだけ重ねてきた様な子供達が、能動連鎖的に自殺している。
彼らが自殺した理由には、(また大半が現実的処置として苛虐をそれに据え、実際にそうかもしれないが)
崩壊因子としての自我喪失が、無意識下に少なからずあったように思う。
そして、しばしば死は悔恨されるように、恣意消滅は赦されない。理解されない。
僕らは連綿と関係性をもった連続体という答えなのだろう。
生の欲動と死の欲動は占拠において対等であり、均衡が崩れれば修復が熾るのだろう。
僕は、人間意識の最近類として何にも介在されない物自体を想起する。
巨大な、独立した個体として「意識のようなもの」を喚起させる。
それが、意識として、最上の段階で規定させられる僕たちの現象なのかも知れない。
僕らはやがて大人になる。
僕らは僕らの子供達に"個立"を望むのだろうか。
ただし、希求が途絶えれば、僕らは消滅するに違いない。
Saturday, November 11, 2006
le pénitencier
ヒトの肉体は、その機能の全てを言語化し唯物論の用語によって余すことなく記述することが出来る。肉体も器官に過ぎない。その物理的な制約がヒトの進化を留めているのだとしたら、それはヒトという種の終わりを、いもしない神によって決定づけられているようなものだ。ヒトの中に刻まれた情報は、その個体が意識を受けて得たものだけではない。ヒトという種が連綿と繋がり続け、情報をその中に蓄積してきたのだ。
地球には地球自らが持つ固有の電磁波が存在する。電離層と地上との間で、ELF帯、つまり極超長電磁波として、8Hzの周波数の共鳴が常に起こっている。これを、シューマン共鳴と呼ぶ。この、地球が常に放っている、いわば地球の脳波は、人類にどれだけの影響を及ぼしているのかは未だに分かってはいないが、このシューマン共鳴を触媒として、プロトコルのような共有言語の役割を果たせば、デバイスなしで人脳間ネットワークが形成されることも有り得る。
地球の人口は、やがて、脳内のニューロンと同じ数に達する。ニューヨークベースのコラムニスト・講師であるDouglas Rushkoff氏は、地球上の人間同士が、ネットワークで相互接続することにより地球自身の意識をも覚醒させうるとしている。確かに、ネットワークはニューロテックに進化を遂げており、ヒトの脳内のシナプスに繋がれたそれと同じく、地球そのものがニューラルネットワークと化しているといえる。更に、それらに伴った独立した人間行動が、脳としての地球の役割を補完することになるだろう。
しかし、そのようにして地球が一つの「もの」としての回帰に近づくのであれば、あるいは、そうでなくとも、我々の存在は、ただそれを構成する一要素でしかなく、接続されながらも、意識体としての我々は独立的であるため、インディヴィジュアリティの遍在という矛盾に突き当たる。
地球には地球自らが持つ固有の電磁波が存在する。電離層と地上との間で、ELF帯、つまり極超長電磁波として、8Hzの周波数の共鳴が常に起こっている。これを、シューマン共鳴と呼ぶ。この、地球が常に放っている、いわば地球の脳波は、人類にどれだけの影響を及ぼしているのかは未だに分かってはいないが、このシューマン共鳴を触媒として、プロトコルのような共有言語の役割を果たせば、デバイスなしで人脳間ネットワークが形成されることも有り得る。
地球の人口は、やがて、脳内のニューロンと同じ数に達する。ニューヨークベースのコラムニスト・講師であるDouglas Rushkoff氏は、地球上の人間同士が、ネットワークで相互接続することにより地球自身の意識をも覚醒させうるとしている。確かに、ネットワークはニューロテックに進化を遂げており、ヒトの脳内のシナプスに繋がれたそれと同じく、地球そのものがニューラルネットワークと化しているといえる。更に、それらに伴った独立した人間行動が、脳としての地球の役割を補完することになるだろう。
しかし、そのようにして地球が一つの「もの」としての回帰に近づくのであれば、あるいは、そうでなくとも、我々の存在は、ただそれを構成する一要素でしかなく、接続されながらも、意識体としての我々は独立的であるため、インディヴィジュアリティの遍在という矛盾に突き当たる。
Wednesday, October 18, 2006
弁護士
複数の人間がいると、互いに影響し合うことによって、度重なる接触の中に一定の様式や秩序などが生まれる。これらをある種の領域であるかのように捉えて、構成する不特定多数の人間たちの集まりを社会と呼ぶ。まさに共同体と謂うに相応しい現代のそれは、法という秩序の元で、既成の倫理観を逸することなく、相互干渉を自ら制限することに拠ってそれの一切を社会という単独意識体に委ねている。
人を殺してはいけないのはなぜか?という問いに答えられない「現代人」が多くなったと聞く。過去の文明において生活する人間はその問い答えられたか。否、そもそも人を殺してはいけないという「真実」はそこにはなかった。在ったのは、人を殺すことによって、その属する共同体から排斥されるという事実だけだ。
道徳について思慮を焼べる人間が減ったのではなく、発生した都合論理に疑問を投げかける人間が増えたのだ。
我々は、属する社会において、如何に自らを人間的に装うかを考えている機械だ。
「飢えれば食え。絶望すれば死ね。憎ければ殺せ。愛しければ犯せ。」などと言えば社会から排斥されるであろう。
人を殺してはいけないのはなぜか?という問いに答えられない「現代人」が多くなったと聞く。過去の文明において生活する人間はその問い答えられたか。否、そもそも人を殺してはいけないという「真実」はそこにはなかった。在ったのは、人を殺すことによって、その属する共同体から排斥されるという事実だけだ。
道徳について思慮を焼べる人間が減ったのではなく、発生した都合論理に疑問を投げかける人間が増えたのだ。
我々は、属する社会において、如何に自らを人間的に装うかを考えている機械だ。
「飢えれば食え。絶望すれば死ね。憎ければ殺せ。愛しければ犯せ。」などと言えば社会から排斥されるであろう。
Sunday, October 15, 2006
perversion
例えば私が、この人間が発明した記文法を用ゐて、ある制圧的な環境下に置かれようとも、思索し得た事、かの人間にさうした事柄を伝える内容としてそれを記し、私がその目的を認めた文章をここに残していくとした場合、一体それはある制圧的な環境の下で何らかの可逆性をもってしてあるに過ぎないということを、私は了解してゐる。
Ambrose Gwinnett Bierceは『THE DEVIL'S DICTIONARY』の中で、デカルトの発言は不徹底である、厳密性を更に求めるならcogito cogito, ergo cogito sum.(「我思うと我思う、故に我ありと我思う」)というべきであろうと書いている。確かに、cogitoを論ずるときには、それが単なる「私」ではなく「考えるところの私」もしくは「私は考える」の意味であることを忘れてはいけない。しかしデカルトはそうした含意を統括する際に発生する精神と肉体のパラドキシカルな階層的二項対立を、つまりは「私」の位相または定義をある程度メタフィジカルな領域に据えざるをえないことを目測していたのだろう。
例えば私が、ある事柄を選択し得るとして、思い通りにその事柄を決定した場合に、私は自由だったといえるか。私が他のありとあらゆる他の事象、つまりは「ある事柄を選択する」という状況をも別様に選択出来なければ私は自由ではない。自由というのは私以前の強大な何かが規定した、決して満たされぬ事象なのだ。自由を求めるということは、決して満たされぬ穴の開いた釜に水を注ぎ入れることに等しい。
私がゐる、この世界には他に幾万もの人間が存在してゐて、それらに偏在する自我のアーキタイプとしての集合的無意識そのものが私の意識を蝕むのだ。というのは、縛られた、非開放的なそれに拠って私の望むところの意識と、そうで”あらなければならない”現実存在的な意識との不一致ではなく、私というものが生まれてくる以前に私というものが形成されてくるおぞましい世界、この懐疑主義を装うありとあらゆる単独意識体の、眼に見えぬシンクロニシティが私と私でありたいという私を切り裂くのだ。私は幾度となくこの見果てぬ平面からの解脱を試みはしたが、私の”上”に何があろうかとも知れん。
そこで私は単なる一回性の物質体である私のような存在が、さらに同時偏在し、まるで超越的なものの手のひらで転がされているという虚無感に覆われ、眼の利かなくなったままよたよたと街道を歩いてゐるという譯である。
Ambrose Gwinnett Bierceは『THE DEVIL'S DICTIONARY』の中で、デカルトの発言は不徹底である、厳密性を更に求めるならcogito cogito, ergo cogito sum.(「我思うと我思う、故に我ありと我思う」)というべきであろうと書いている。確かに、cogitoを論ずるときには、それが単なる「私」ではなく「考えるところの私」もしくは「私は考える」の意味であることを忘れてはいけない。しかしデカルトはそうした含意を統括する際に発生する精神と肉体のパラドキシカルな階層的二項対立を、つまりは「私」の位相または定義をある程度メタフィジカルな領域に据えざるをえないことを目測していたのだろう。
例えば私が、ある事柄を選択し得るとして、思い通りにその事柄を決定した場合に、私は自由だったといえるか。私が他のありとあらゆる他の事象、つまりは「ある事柄を選択する」という状況をも別様に選択出来なければ私は自由ではない。自由というのは私以前の強大な何かが規定した、決して満たされぬ事象なのだ。自由を求めるということは、決して満たされぬ穴の開いた釜に水を注ぎ入れることに等しい。
私がゐる、この世界には他に幾万もの人間が存在してゐて、それらに偏在する自我のアーキタイプとしての集合的無意識そのものが私の意識を蝕むのだ。というのは、縛られた、非開放的なそれに拠って私の望むところの意識と、そうで”あらなければならない”現実存在的な意識との不一致ではなく、私というものが生まれてくる以前に私というものが形成されてくるおぞましい世界、この懐疑主義を装うありとあらゆる単独意識体の、眼に見えぬシンクロニシティが私と私でありたいという私を切り裂くのだ。私は幾度となくこの見果てぬ平面からの解脱を試みはしたが、私の”上”に何があろうかとも知れん。
そこで私は単なる一回性の物質体である私のような存在が、さらに同時偏在し、まるで超越的なものの手のひらで転がされているという虚無感に覆われ、眼の利かなくなったままよたよたと街道を歩いてゐるという譯である。
Thursday, September 14, 2006
C#C#G#C#G#C# -panharmonicon-
否定的、嘲弄的な、いはゆる常識なる物は、病菌として彼等を冒してゐるのです。
この常識なるものはあらゆるものをただ猍めてしまふだけであって、その觀察の眼が向けられる對象はただ無意味な現實だけ、つまり、その熱狂的な信奉者どもが大袈裟に大地に皍した事物などと呼んでゐるあの現實だけに限られてゐるのです。まるで、かういふ退屈極まる事物、この上もなく暗々裡に因襲と化した事物が、實再に生きてゐる人間の、ありとあらゆる憂慮を、悉く消化できる筈だとでも考へてゐるかのやうです。
或る種の人間とかいふ低級な事物との間には隱密な連絡がとれてゐるのです。そこから、これらの事物とこれらの人間との間にあの自然な傾向、あの相互的な磁力が生まれて來るのです。呼び合ひ、引き合ひ、溶け合ふのですね。かういふ事物に生きる連中は富を積んでも無駄です。
彼等は、自分の息を詰まらせてゐる、持って生れた卑しさのために、人知れず苦しみ、そして死んでゆくのです。生理學的見地から見ますと、かうした無能な實證主義というふ症例は、昨今いよいよその數を増してゐますが、要するに神經衰弱の奇妙な形式にすぎないのです。これは一種の精神錯亂であり、その患者たちは、睡眠中でも、幾つかの言葉を繰返すやうになるのですが、それが一見≪重要≫らしき言葉であり、ただそれを口にするだけ、人生に≪重み≫がつくやうな氣分になるといふ言葉なのですね。
例へば、≪堅實味のある――實際的な――常識≫その他いろいろ、何がなんでも、見境なく口にされる言葉がそれです。かうした氣違ひどもは、こんなふうに考へてゐるのですが、それも屢々御尤もなのです。つまり、かういふ言葉の唯一の功徳は、たとへ上の空で發音しても、これを口ずさむ人に、能力ありといふ證明を與へるといふのです。そこで彼等は、これらの語彙を絶え間なく口にするといふ、功利的かつ機械的な習慣を身につけたのですが、――その結果、遂に彼等は、これらの單語に染み込んでゐる癡呆症的ヒステリーに骨の髄まで冒されてしまふのです。
何よりも驚くべきことは彼等にたぶらかされる連中が出て來るといふこと、往々にして彼等は諸國で行政權を掌握するに至るといふことです。彼等のおめでたい、獨りよがりな、天下泰平な無能ぶりときたら、瘋癲病院行きの値打しかないのにですね。
『未来のイヴ』(創元ライブラリ刊)より抜粋、一部都合の好いやうに改變ゐたしました。
かういふ譯を采りまして、大學受驗を辞することに訣めました。
この常識なるものはあらゆるものをただ猍めてしまふだけであって、その觀察の眼が向けられる對象はただ無意味な現實だけ、つまり、その熱狂的な信奉者どもが大袈裟に大地に皍した事物などと呼んでゐるあの現實だけに限られてゐるのです。まるで、かういふ退屈極まる事物、この上もなく暗々裡に因襲と化した事物が、實再に生きてゐる人間の、ありとあらゆる憂慮を、悉く消化できる筈だとでも考へてゐるかのやうです。
或る種の人間とかいふ低級な事物との間には隱密な連絡がとれてゐるのです。そこから、これらの事物とこれらの人間との間にあの自然な傾向、あの相互的な磁力が生まれて來るのです。呼び合ひ、引き合ひ、溶け合ふのですね。かういふ事物に生きる連中は富を積んでも無駄です。
彼等は、自分の息を詰まらせてゐる、持って生れた卑しさのために、人知れず苦しみ、そして死んでゆくのです。生理學的見地から見ますと、かうした無能な實證主義というふ症例は、昨今いよいよその數を増してゐますが、要するに神經衰弱の奇妙な形式にすぎないのです。これは一種の精神錯亂であり、その患者たちは、睡眠中でも、幾つかの言葉を繰返すやうになるのですが、それが一見≪重要≫らしき言葉であり、ただそれを口にするだけ、人生に≪重み≫がつくやうな氣分になるといふ言葉なのですね。
例へば、≪堅實味のある――實際的な――常識≫その他いろいろ、何がなんでも、見境なく口にされる言葉がそれです。かうした氣違ひどもは、こんなふうに考へてゐるのですが、それも屢々御尤もなのです。つまり、かういふ言葉の唯一の功徳は、たとへ上の空で發音しても、これを口ずさむ人に、能力ありといふ證明を與へるといふのです。そこで彼等は、これらの語彙を絶え間なく口にするといふ、功利的かつ機械的な習慣を身につけたのですが、――その結果、遂に彼等は、これらの單語に染み込んでゐる癡呆症的ヒステリーに骨の髄まで冒されてしまふのです。
何よりも驚くべきことは彼等にたぶらかされる連中が出て來るといふこと、往々にして彼等は諸國で行政權を掌握するに至るといふことです。彼等のおめでたい、獨りよがりな、天下泰平な無能ぶりときたら、瘋癲病院行きの値打しかないのにですね。
『未来のイヴ』(創元ライブラリ刊)より抜粋、一部都合の好いやうに改變ゐたしました。
かういふ譯を采りまして、大學受驗を辞することに訣めました。
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