loss of droit
brisken lsd
you
in the mirror ugliness
ridiculous travesty
filling in the blanks on this adversaria
you
in the mirror truth
feet on the verge
give in to virtuous acolasia
verily, yet blind, myself
Sunday, June 17, 2007
Sunday, May 27, 2007
Saturday, May 5, 2007
a present significance
under the intentional control
sawing extremities all the same
uttering words athendf her unseen lung
Icicle/Tori Amos
icicle icicle
where are you going
I have a hiding place
when spring marches in
greeting the monster in our easter dresses
father says bow your head like the good book says
well I think the good book is missing some pages
sawing extremities all the same
uttering words athendf her unseen lung
Icicle/Tori Amos
icicle icicle
where are you going
I have a hiding place
when spring marches in
greeting the monster in our easter dresses
father says bow your head like the good book says
well I think the good book is missing some pages
Friday, January 19, 2007
Alter Ego-肯定隔絶-
他者をみる批判的なまなざしが、いつも私の中にあるだろう。
介在する感情の如何にかかわらず、ものごとを批判するとき、私は言語を用いてそれをなす。
その批判とは、肯定/否定の意味と袂を分かち、そのものを知り、理解し、そのものごとの因果や立脚点を明らかにすることであるとただしておく。
人が、自ら「文明」と呼ぶそれは、感情、思考云々を伝達するために、まず言語、あるいはそれにあたる何かを創造した。言(ここでは活字などへ表象される以前の「何か」とするため”言”とする)なくして、人は成り立ち得ない筈である。誰でも頭の中では色や形といった「何か」が映されている。
文明が内包する伝達とは、「何か」を「何者か」に伝えることである。他者の存在があってはじめて、伝達が成り立つ。
そして人がその内に溜め込んだ何かは、それ以前に何処かから取り込んだものである。つまり、伝達の前に、伝えるべき何かを認識する必要がある。
伝達の前段階にあるこれら一連の行為、他者と自らの言の認識が、批判的なまなざしをもってなされる。
あらためて、これらのものは全て言なくして存在し得ない。文明に必要とされる理解は、言語を用いて論理展開していく他に、それを実行する術は無い。
言とは、「何か」の認識である。ヒトの器官が、発声や書記というような伝達行動に適したが故に、私達の一般的な言は言葉として認知されているが、感覚であり、絵画的なイメージでもある。
だが言葉は普遍的なものである。言葉は、自らで自らの「認識」の普遍的正確さを保つことができる。だからこそ、言は言葉として表せる。
「あることの認識」が表象されたものが、自身で「あることの認識」を表象しているということの肯定を成せるのは、絵画でも音楽でもなく、(おそらく)言語のみである。
批判的なまなざしをもって言を認識する。
しばしばそれで、あらゆる実体、情報、心理、社会、人間、すべての事象、存在の肯定と否定を迫られ、私というものをも構築していく。
私は神の手によって、意図して創造されたか。
自然の一部に計られた、生理過程の端所に表出した一介の生命体であるか。
私は両親の晶かな愛の中に産まれ、温かい加護によって育てられた子供であるか。
包摂された環境が私の礎となり、それこそが私であるか。
そして「存在」の批判的認識を前にして、私が築いてきた「私」というものは悉く崩された。
私の中で存在の批判は、空間は確率分布的に遍在するという物理的な解釈や、蓋然性の総体に支配され、現実に直面し、絶望した私自身の、実存主義的な陥穽と拮抗、あるいは複合し、「真偽の判定」は、「存在は存在自体であるか」という命題に委ねられるものになっていた。
肯定と否定は、人間として生活する為の、より主観的な認識の下に行われる。
その主観的な実存感覚の肯定を、無意識下に繰り返すうちに、まるでそうであったかと思うほど、存在の肯定は私の後ろについてまわっていた。
しかしながら、私が、真偽のままならない実存感覚の上で繰返してきた批判は、その存在の肯定と否定を前にして、停止した。
だがそれ以前に、実存感覚の否定は、否定すること自体を無くしていた。もはや、批判的まなざしなど、自らが何であるか分からないものにとって、何の意味もなかった。
「真偽」は、存在の真偽ではなかったか。
幾度かの真偽の判定を経るとき、私は真偽の希薄化を意識したことに伴う、実存感覚の欠如によって「批判的なまなざし」を取り除いた。
真偽は遍在し、存在など無いという言語の一対一対応の特殊性に裏切られた私は、検証可能性をもたないそれらは言語に表象し得ないということに更に絶望した。
存在の肯定と否定は、ヒトが作りだした言語の範疇においては成し得ないのだ。存在はヒトがつくりだすものではない。ものでも何かですらもない。
人は、「存在」でないのならば一体何なのか。
絶望に支配された世の中で、少しでも幸福になる為に生きているのだろうか。世界では生きたくても生きられない人がいるから生きるのだろうか。
ロゴス中心主義は存在理由に辿りつくのか。
私は愚かにも、これを捨て去った筈の批判的なまなざしをもって肯定/否定の場に持ち出そうとしたが、それすらも不可能だった。
幸福とは何か。
少なくとも、私にとって幸福であるということは、言によってのみ感ぜられるものだろう。
無形の「言」であるはずの幸福を、結婚、金、名声といった形あるものに求めている人を見れば、もはや観念化した幸福というものに何を見出すのか。
宇宙はどこから来たのか。人類の未来は資源の絶えた地球で、滅亡の道をどんな想いで歩むのか。
刹那的快楽に身を委ねることが人の持ちうる運命か。
永劫回帰や魂の輪廻として、私自身を肯定しなければならないのか。
そもそも、批判的まなざしを持つことさえ許されないのか。
私がこの本を読み終えるまで、高校生生活の中で思い得たものは、自壊したロゴスが辿り着いた、「運命について想いを巡らせているまさにそこに現れているその運命を、自身の現われとして受け入れ、その不思議な愉悦の時間を味わう為に生きる」というものだった。
本来、検証可能性のないこれらのことは、「私が思った」というフィルターを通して、ここにあらわしたい。
それがまたひとつ、私の存在の肯定に繋がることを夢みながら。
○ 無私の精神/小林秀雄を読んで
介在する感情の如何にかかわらず、ものごとを批判するとき、私は言語を用いてそれをなす。
その批判とは、肯定/否定の意味と袂を分かち、そのものを知り、理解し、そのものごとの因果や立脚点を明らかにすることであるとただしておく。
人が、自ら「文明」と呼ぶそれは、感情、思考云々を伝達するために、まず言語、あるいはそれにあたる何かを創造した。言(ここでは活字などへ表象される以前の「何か」とするため”言”とする)なくして、人は成り立ち得ない筈である。誰でも頭の中では色や形といった「何か」が映されている。
文明が内包する伝達とは、「何か」を「何者か」に伝えることである。他者の存在があってはじめて、伝達が成り立つ。
そして人がその内に溜め込んだ何かは、それ以前に何処かから取り込んだものである。つまり、伝達の前に、伝えるべき何かを認識する必要がある。
伝達の前段階にあるこれら一連の行為、他者と自らの言の認識が、批判的なまなざしをもってなされる。
あらためて、これらのものは全て言なくして存在し得ない。文明に必要とされる理解は、言語を用いて論理展開していく他に、それを実行する術は無い。
言とは、「何か」の認識である。ヒトの器官が、発声や書記というような伝達行動に適したが故に、私達の一般的な言は言葉として認知されているが、感覚であり、絵画的なイメージでもある。
だが言葉は普遍的なものである。言葉は、自らで自らの「認識」の普遍的正確さを保つことができる。だからこそ、言は言葉として表せる。
「あることの認識」が表象されたものが、自身で「あることの認識」を表象しているということの肯定を成せるのは、絵画でも音楽でもなく、(おそらく)言語のみである。
批判的なまなざしをもって言を認識する。
しばしばそれで、あらゆる実体、情報、心理、社会、人間、すべての事象、存在の肯定と否定を迫られ、私というものをも構築していく。
私は神の手によって、意図して創造されたか。
自然の一部に計られた、生理過程の端所に表出した一介の生命体であるか。
私は両親の晶かな愛の中に産まれ、温かい加護によって育てられた子供であるか。
包摂された環境が私の礎となり、それこそが私であるか。
そして「存在」の批判的認識を前にして、私が築いてきた「私」というものは悉く崩された。
私の中で存在の批判は、空間は確率分布的に遍在するという物理的な解釈や、蓋然性の総体に支配され、現実に直面し、絶望した私自身の、実存主義的な陥穽と拮抗、あるいは複合し、「真偽の判定」は、「存在は存在自体であるか」という命題に委ねられるものになっていた。
肯定と否定は、人間として生活する為の、より主観的な認識の下に行われる。
その主観的な実存感覚の肯定を、無意識下に繰り返すうちに、まるでそうであったかと思うほど、存在の肯定は私の後ろについてまわっていた。
しかしながら、私が、真偽のままならない実存感覚の上で繰返してきた批判は、その存在の肯定と否定を前にして、停止した。
だがそれ以前に、実存感覚の否定は、否定すること自体を無くしていた。もはや、批判的まなざしなど、自らが何であるか分からないものにとって、何の意味もなかった。
「真偽」は、存在の真偽ではなかったか。
幾度かの真偽の判定を経るとき、私は真偽の希薄化を意識したことに伴う、実存感覚の欠如によって「批判的なまなざし」を取り除いた。
真偽は遍在し、存在など無いという言語の一対一対応の特殊性に裏切られた私は、検証可能性をもたないそれらは言語に表象し得ないということに更に絶望した。
存在の肯定と否定は、ヒトが作りだした言語の範疇においては成し得ないのだ。存在はヒトがつくりだすものではない。ものでも何かですらもない。
人は、「存在」でないのならば一体何なのか。
絶望に支配された世の中で、少しでも幸福になる為に生きているのだろうか。世界では生きたくても生きられない人がいるから生きるのだろうか。
ロゴス中心主義は存在理由に辿りつくのか。
私は愚かにも、これを捨て去った筈の批判的なまなざしをもって肯定/否定の場に持ち出そうとしたが、それすらも不可能だった。
幸福とは何か。
少なくとも、私にとって幸福であるということは、言によってのみ感ぜられるものだろう。
無形の「言」であるはずの幸福を、結婚、金、名声といった形あるものに求めている人を見れば、もはや観念化した幸福というものに何を見出すのか。
宇宙はどこから来たのか。人類の未来は資源の絶えた地球で、滅亡の道をどんな想いで歩むのか。
刹那的快楽に身を委ねることが人の持ちうる運命か。
永劫回帰や魂の輪廻として、私自身を肯定しなければならないのか。
そもそも、批判的まなざしを持つことさえ許されないのか。
私がこの本を読み終えるまで、高校生生活の中で思い得たものは、自壊したロゴスが辿り着いた、「運命について想いを巡らせているまさにそこに現れているその運命を、自身の現われとして受け入れ、その不思議な愉悦の時間を味わう為に生きる」というものだった。
本来、検証可能性のないこれらのことは、「私が思った」というフィルターを通して、ここにあらわしたい。
それがまたひとつ、私の存在の肯定に繋がることを夢みながら。
○ 無私の精神/小林秀雄を読んで
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