三月七日、土曜日。
例えば霊的な存在に怯えたり何か得体の知れないものに畏怖を覚えるときに、僕等は未知のものに対して恐怖している。そのときの脳の働きとして、僕等は記憶の片鱗に横たわる存在認識を掘り起こし半推量的にその「未知なるもの」の存在確証を得る。それは遺伝子の記憶であったり、幼少の砌に刻まれたトラウマ、またはテレビで聞きかじった情報であったりする。そういった情報の原ポンは多種多様で、僕等がそうした外部認識の入り込んだ記憶を掴まされる可能性はとてつもなく高く、それを回避する手立ては全くないといえる。
反対に、恣意的な操作によって恐怖を生産する存在をあたかもそこに在るかのようにみせかけることは可能である。宗教、マスコミ、外国人、妖怪、迷信、その他諸々、この世でにんげんがなんらかの仕方で恐怖するものの大半は、既存概念によった産物であり、本来の生物的な本能からくるものではない。人を外にした動物は宗教に傾倒しないし、迷信に抱かれて妖怪の影から追われることもない。経験則的な知恵として物理的危害を加えようとする兆候がみられる対象を警戒するだけのことだ。だからライオンは我が子を危険に晒し、体で自然則を覚えさせる。言って聞かせるような真似はしない。与えられた情報は伝達過程において必ず欠落または婉曲されて、発信者がいかに真実を語っていようと、受け手に100%すべてが理解されるという事態は起こりえない。したがって人間を除いたすべての生物は、僕等のいう恐怖というものを認識することはない。
それではなぜ僕等は恐怖するのか。これには大きく分けて三つの目的がある。第一に自分への暗示。自らにある事象の脅威を継続的に思考させることによって、自らの行いを正当化させる目的がある。第二に他者への自己表現。恐怖している自分を他者に見せる行為によって、第三者へ思考の共有を求め、自己表現の確立を目的とする。第三は他の動物と同様、経験則に基づいて、不測の事態を最低のコストで乗り切る為の防衛策とする。
多くのにんげんは何かに恐怖する。しかし、深層意識を覗いてみれば、それはただの妄想であり、僕等がそうすべきであるという法はどこにもない。確かにいえることは、僕等はただ自己に支配されているということだけである。「思考する僕」と「僕の意識」は二つの異なるものである。
Saturday, March 7, 2009
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