此処一週間、気持ちが塞ぎ込んでしまっていた。春休みだというのに、全く何も獲得しなかった。
週末に実家に電話をかけた際に、父と今後の人生設計についてアドバイス等を貰い、明確で段階的計画でないのであれば、それは甘い、というようなことを感じた。僕の父は殊僕に対しては言葉下手なので、変に気を遣ったり、わざと回りくどい言い方をしたりする。しかしもう二十年も育ててもらったのだから云いたい事ぐらいは分かる。要するに、莫大な金を出資している以上、ゆくゆくは自分たちの老後の預金まで崩さなくてはならなくなる。そういった金銭的責任を排除するために、俺が一端の社会人になるまでの道程をコントロールしろ、ということだ。
今まで、最後には常に父が立ちはだかって、僕の未熟な意識を底上げしてくれていた。二、三年前までは「子育て」という意味に於いて母に任せっきりだったことに対する反感を少なからず持ってはいたが、決してそのようなことはないのだろう。父は、間違いなく僕の師匠のひとりであり、我が家の大黒柱として十二分に家庭の外堀を固めてくれているのである。しかし乍ら、所謂大人物である父の重圧、僕自身が感じる気負いというのもある。どういう意味であれ、父をこえる、というのはとても困難なことであり、父と同じ側の人間として渡り合っていくことに、とてつもない不安を感じるのも本当だ。
僕の危機管理能力の無さと云ったら絶望的で、更に意志を持続させるなど謂うまでも無く、ほとほと呆れ果てるしかないのだけれど、残り一週間で二十の齢を迎えるにあたって、自己改変をしようと思う。本日より「葉隠れの自問」を導入したいと思います。
朝、目が覚めるまで、布団の中で自分が死ぬ場面をシミュレートし、そのままの死体の姿で一日をはじめ、これからあるその一日が自分が生きることの叶わなかった一日を生きるように、人生に一切の悔いを残すことなきように、すなわち、一日一生一死の魂を持って生く。
Monday, March 23, 2009
Monday, March 9, 2009
hypersophisticated
三月八日、日曜日。
ゾマホンについて。まじめな努力家で、他者のために身を粉にして勉強してきた偉大な人物である。彼のようなアフリカ出身の勤勉家をみると、マサチューセッツの田舎町で出会った友人を思い出す。彼は、私が孤独な一人暮らしをしていたころに出来たはじめての友人で、日本への留学経験があったので(日本語は殆ど忘れてしまっていたが)話すようになった。故郷の親戚に金を送り、子供を育てながら仕事をし、更にその傍ら大学で知識を身につける。教育に対しての貪欲な姿はとどまることを知らない。故郷の国では学校に行く事すらままならないという記憶が助けるのか。その姿をみて僕も毎回奮起させられていたが、また毎回のように持続しない。それは私の家族や国が裕福であり、なにもしていなくても生きていられるという環境がそれを許すのであるが、決して自分の意志でそうしたい訳ではない。否、いくらそう思っていても、事実堕落した生活を送っていては弁解の仕様がないわけであるが。
Javaの教授から課題に対しての返信があった。晴れてquintuple A++をもらえることが出来たので、今夜はこれから気兼ねなく数学に集中できるわけだ。明日は正午前に大学にいって、仏語の教授にCCISへのconfidential referenceを依頼しないといけない。Quinsigamondのtranscriptの必要性の有無も気がかりだ。留学生センターにいってそれも訊いて来なければならない。それに関しては木曜日までにはなんとかならなくても良い。という気持ちで行かないと精神の安息が保てない。些細なことを気にしているようではここでは生きていけない。
先週は読書をしなかった。ドグラ・マグラの下巻を読み始めてから一週間経つが、あまりの眠さに通学訓時間に本を持って歩くということをしなかった。せっかく取り戻して、やっと続かせていた習慣なので今週また再開させたいと思う。
ゾマホンについて。まじめな努力家で、他者のために身を粉にして勉強してきた偉大な人物である。彼のようなアフリカ出身の勤勉家をみると、マサチューセッツの田舎町で出会った友人を思い出す。彼は、私が孤独な一人暮らしをしていたころに出来たはじめての友人で、日本への留学経験があったので(日本語は殆ど忘れてしまっていたが)話すようになった。故郷の親戚に金を送り、子供を育てながら仕事をし、更にその傍ら大学で知識を身につける。教育に対しての貪欲な姿はとどまることを知らない。故郷の国では学校に行く事すらままならないという記憶が助けるのか。その姿をみて僕も毎回奮起させられていたが、また毎回のように持続しない。それは私の家族や国が裕福であり、なにもしていなくても生きていられるという環境がそれを許すのであるが、決して自分の意志でそうしたい訳ではない。否、いくらそう思っていても、事実堕落した生活を送っていては弁解の仕様がないわけであるが。
Javaの教授から課題に対しての返信があった。晴れてquintuple A++をもらえることが出来たので、今夜はこれから気兼ねなく数学に集中できるわけだ。明日は正午前に大学にいって、仏語の教授にCCISへのconfidential referenceを依頼しないといけない。Quinsigamondのtranscriptの必要性の有無も気がかりだ。留学生センターにいってそれも訊いて来なければならない。それに関しては木曜日までにはなんとかならなくても良い。という気持ちで行かないと精神の安息が保てない。些細なことを気にしているようではここでは生きていけない。
先週は読書をしなかった。ドグラ・マグラの下巻を読み始めてから一週間経つが、あまりの眠さに通学訓時間に本を持って歩くということをしなかった。せっかく取り戻して、やっと続かせていた習慣なので今週また再開させたいと思う。
Saturday, March 7, 2009
ウルトラヴァイオレンシア
三月七日、土曜日。
例えば霊的な存在に怯えたり何か得体の知れないものに畏怖を覚えるときに、僕等は未知のものに対して恐怖している。そのときの脳の働きとして、僕等は記憶の片鱗に横たわる存在認識を掘り起こし半推量的にその「未知なるもの」の存在確証を得る。それは遺伝子の記憶であったり、幼少の砌に刻まれたトラウマ、またはテレビで聞きかじった情報であったりする。そういった情報の原ポンは多種多様で、僕等がそうした外部認識の入り込んだ記憶を掴まされる可能性はとてつもなく高く、それを回避する手立ては全くないといえる。
反対に、恣意的な操作によって恐怖を生産する存在をあたかもそこに在るかのようにみせかけることは可能である。宗教、マスコミ、外国人、妖怪、迷信、その他諸々、この世でにんげんがなんらかの仕方で恐怖するものの大半は、既存概念によった産物であり、本来の生物的な本能からくるものではない。人を外にした動物は宗教に傾倒しないし、迷信に抱かれて妖怪の影から追われることもない。経験則的な知恵として物理的危害を加えようとする兆候がみられる対象を警戒するだけのことだ。だからライオンは我が子を危険に晒し、体で自然則を覚えさせる。言って聞かせるような真似はしない。与えられた情報は伝達過程において必ず欠落または婉曲されて、発信者がいかに真実を語っていようと、受け手に100%すべてが理解されるという事態は起こりえない。したがって人間を除いたすべての生物は、僕等のいう恐怖というものを認識することはない。
それではなぜ僕等は恐怖するのか。これには大きく分けて三つの目的がある。第一に自分への暗示。自らにある事象の脅威を継続的に思考させることによって、自らの行いを正当化させる目的がある。第二に他者への自己表現。恐怖している自分を他者に見せる行為によって、第三者へ思考の共有を求め、自己表現の確立を目的とする。第三は他の動物と同様、経験則に基づいて、不測の事態を最低のコストで乗り切る為の防衛策とする。
多くのにんげんは何かに恐怖する。しかし、深層意識を覗いてみれば、それはただの妄想であり、僕等がそうすべきであるという法はどこにもない。確かにいえることは、僕等はただ自己に支配されているということだけである。「思考する僕」と「僕の意識」は二つの異なるものである。
例えば霊的な存在に怯えたり何か得体の知れないものに畏怖を覚えるときに、僕等は未知のものに対して恐怖している。そのときの脳の働きとして、僕等は記憶の片鱗に横たわる存在認識を掘り起こし半推量的にその「未知なるもの」の存在確証を得る。それは遺伝子の記憶であったり、幼少の砌に刻まれたトラウマ、またはテレビで聞きかじった情報であったりする。そういった情報の原ポンは多種多様で、僕等がそうした外部認識の入り込んだ記憶を掴まされる可能性はとてつもなく高く、それを回避する手立ては全くないといえる。
反対に、恣意的な操作によって恐怖を生産する存在をあたかもそこに在るかのようにみせかけることは可能である。宗教、マスコミ、外国人、妖怪、迷信、その他諸々、この世でにんげんがなんらかの仕方で恐怖するものの大半は、既存概念によった産物であり、本来の生物的な本能からくるものではない。人を外にした動物は宗教に傾倒しないし、迷信に抱かれて妖怪の影から追われることもない。経験則的な知恵として物理的危害を加えようとする兆候がみられる対象を警戒するだけのことだ。だからライオンは我が子を危険に晒し、体で自然則を覚えさせる。言って聞かせるような真似はしない。与えられた情報は伝達過程において必ず欠落または婉曲されて、発信者がいかに真実を語っていようと、受け手に100%すべてが理解されるという事態は起こりえない。したがって人間を除いたすべての生物は、僕等のいう恐怖というものを認識することはない。
それではなぜ僕等は恐怖するのか。これには大きく分けて三つの目的がある。第一に自分への暗示。自らにある事象の脅威を継続的に思考させることによって、自らの行いを正当化させる目的がある。第二に他者への自己表現。恐怖している自分を他者に見せる行為によって、第三者へ思考の共有を求め、自己表現の確立を目的とする。第三は他の動物と同様、経験則に基づいて、不測の事態を最低のコストで乗り切る為の防衛策とする。
多くのにんげんは何かに恐怖する。しかし、深層意識を覗いてみれば、それはただの妄想であり、僕等がそうすべきであるという法はどこにもない。確かにいえることは、僕等はただ自己に支配されているということだけである。「思考する僕」と「僕の意識」は二つの異なるものである。
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