僕は、可逆変化し得るという理想のもとに在る。
自分らしさを持つことが大事と言われてきたこれまでの社会は、殊日本は、欧米化運動の余剰によって自己主張を促されてきた。
否、多分人間は、他者に、自身に、常に自己を持つことを強いてきた。
僕らはおそらく単にタンパク質の塊だが、物質的に個々の差異は立証される。
だが形而上的概念である意識の相違は、計られるものではないだろう。
身体的レベルでは同じでも、意識の同一性に確証を得ることは出来ない。
最近僕らの周りでは、丁度年齢を同じだけ重ねてきた様な子供達が、能動連鎖的に自殺している。
彼らが自殺した理由には、(また大半が現実的処置として苛虐をそれに据え、実際にそうかもしれないが)
崩壊因子としての自我喪失が、無意識下に少なからずあったように思う。
そして、しばしば死は悔恨されるように、恣意消滅は赦されない。理解されない。
僕らは連綿と関係性をもった連続体という答えなのだろう。
生の欲動と死の欲動は占拠において対等であり、均衡が崩れれば修復が熾るのだろう。
僕は、人間意識の最近類として何にも介在されない物自体を想起する。
巨大な、独立した個体として「意識のようなもの」を喚起させる。
それが、意識として、最上の段階で規定させられる僕たちの現象なのかも知れない。
僕らはやがて大人になる。
僕らは僕らの子供達に"個立"を望むのだろうか。
ただし、希求が途絶えれば、僕らは消滅するに違いない。